学問の役割について――シェリング『学問論』を手がかりに
座小田 豊(東北大学・哲学)
一昨年の6月以降、大学における人文社会科学の役割について、大きな議論が様々に行われてきた。その際の鍵となった概念は「有用性Nützlichkeit」であったと言っていいだろう。要するに「役に立つか立たないか」ということである。そもそも「役に立つ」とはどういうことなのか、そのことが議論されることなく、現代社会において「富」と見なされるものに結びつくことが「学問」の主たる役割であるとされ、大学はそのような「学問」だけを研究・教育して社会に貢献すべきである、というわけである。ならば「学問」とは何なのかという基本的な問いが問われるべきであろうが、この問いもまた素通りされてきた。ここでの「役に立つ」というその意味内容はまさにシェリングが『大学における研究の方法に関する講義』(大学論もしくは学問論)のなかで、「Brodstudium(生活の資を得るための学問、もしくは金儲けのための学問)」」として批判のやり玉に挙げているもの(第三講)にほかならない。そして彼は言う、「哲学の有用さNutzについて語ることは、この学問の品位を貶めることだと思う。そもそもそのようなことを問うことができる人がいるとすれば、その人はいまだただの一度もこの学問の理念を手にしたことがないのは確かである」(第四講の終わり近く)。そのようないわば「実利的な」考え方に対して、学問の、そして大学の使命として、彼が明確に掲げるのが、「根源知の理念 Idee des Urwissens」の探究である。
その詳細はここでは述べられないが、こうした学問の理念に対する考え方は、シュエリングの時代の哲学者たちに、ある意味共有されていたと見てよいだろう。もちろん、哲学者それぞれによって違いはあるが、今日の日本の状況を考えるとき、こと哲学の根本的な課題設定・目標という点に関しては、彼らにおける違いよりも共通点の方に目を向けなくてはならないように思われる。
この報告では、特に、学問の目的とは何か、そして有用性とは何か、という観点から、シェリングの学問論の内容を読み解いた上で、さらにカント、フィヒテ、ヘーゲルの学問に関する考え方にも論究し、彼らが提起する「学問の理念」というものを浮き彫りにすることで、その今日的な意義について考えてみたい。
なお、参考までに、わたし自身が関わっている、東北大学が「大学の使命」と考えて現在取り組んでいる、ある試みについても紹介させていただくつもりである。