フリードリッヒ・シュレーゲルによるヤコービ批判の諸相
松岡健一郎(同志社大学・哲学)
フリードリッヒ・シュレーゲルは、1796年には『ヴォルデマール』の書評、1812年には『神的事物』の書評、1822年には『ヤコービ著作集』の書評を発表している。私はこれらのヤコービ論を検討することを通して、シュレーゲルがその前期哲学だけでなく中期・後期哲学においても一貫して対決し克服を試みたものへ、いわばシュレーゲル哲学を貫く「虚軸」へ向けてアプローチできるのではないかと思う。本発表の狙いは、シュレーゲルがこれらのヤコービ論で何を問題にしどう批判しているのか、その解明にある。
従来の研究では、主に前期シュレーゲルのヤコービ批判に関心が向けられてきた。しかし私は前期だけではなく、中期・後期のヤコービ論にももっと関心を向けるべきだと思う。
私は特に1822年の書評に注目したいと思う。最終段落ではシュレーゲルが「ヘーゲル」に(もちろん否定的に)言及している点も重要であるが、それに増して重要であるのは、この文章が(『ヤコービ著作集』の書評という建て前で書かれているが、単なる書物の紹介、論評ではなく)内容上はシュレーゲルがヤコービ批判を通して自らの「信仰」観、「キリスト教的哲学」を開陳したものであること、そしてここでは明示的にもシュレーゲルは「神の秘密」を語り、それが神の人間に対する「へりくだりHerablassung」の思想にあると論じていることにある。
シュレーゲルは、この「神のへりくだり」の思想がヤコービに欠けていると指摘している。「私は啓示と生ける信仰との源泉のことを考えて言っているのだが、(…略…)ヤコービはひたすらただ内的な啓示だけを考えているのであって、そのせいで彼はこの内的な啓示が既に肯定的な啓示で包括されており肯定的な啓示と不可分なものだという認識に辿り着くということが結局ない」(KFSA
8, 586)。こうしてヤコービに反対しつつシュレーゲルが主張するのが「神のへりくだり」およびそれが示す「神の愛」であり、それは人間に根源的に与えられた(所与の)
「肯定的な啓示」であり、シュレーゲルはこの肯定的な啓示の承認を強く要求している。