芸術の裏切り――アドルノ『ヴァーグナー試論』による、ヴァーグナーの「社会的性格」
河口 篤(大阪大学・美学)

 アドルノの『ヴァーグナー試論』は、著者自身が語るように、ホルクハイマーによる論文「エゴイズムと自由を求める解放運動」論文との関係が深い。ホルクハイマーはこの論文で、人間のエゴイズム、つまり、個人的な幸福追求――快楽追求――が、社会的に抑圧されている事態を問題にしている。その抑圧は禁欲的イデオロギーによってもたらされる。マルクスのように、労働を人間の根本的な活動なのだと見なしたり、あるいは、個人の利害を公共の道徳性と対立するものと考えて、後者を優先させようとしたりする考え方である。またホルクハイマーは、一見すると、あるいは、最初の内は、個々人の幸福追求の権利を獲得しようとしているかのような、そういった革命的運動、自由を求める解放運動(Freiheitsbewegung)についても、実際には個人の幸福追求への敵意を存続させていたと論じている。歴史上の例がいくつか挙げられているが、その中に「リエンツィ」がある。リエンツィは、教皇が支配権を持っていた中世ローマの政治家である。彼は古代ローマの偉大さに傾倒し、その再興を願う。彼は当時アヴィニョンにいた教皇や、民衆の支持を背景に、貴族を標的にした改革を進め、護民官の地位に付くが、最終的には独裁者として失脚し、民衆に殺されてしまう。この「リエンツィ」の話を題材に、ヴァーグナーがオペラを書いており、アドルノは、主にそのオペラとホルクハイマーの議論とを重ね合わせる形で、ヴァーグナー作品およびヴァーグナー本人の微妙な政治的立ち位置を論じている。例えば、ヴァーグナーのオペラの中のリエンツィは、民衆に対し、不平等の解消と自由とを約束する。不平等の解消というのは、ローマに住む者を、貴族や平民に分けて呼ぶのではなく、ローマ市民という全体性を持ち出すことによって、平等だと宣言することである。また、貧しい人を、それ故に尊いのだと、道徳的に肯定しもする。自由の宣言は抑圧され悲惨に苦しんでいる民衆に一種のユートピア像を示す。しかしながらリエンツィは実際には市民階級の利害を代表しており、自由とは、個々人が自らの状態に責任を持つことの要求と同等なのだ。それが及ぼす効果は、後の文化産業において述べられるものと同一である。こういったアドルノの議論は、文化産業論の理論的基盤をなしているのである。