ノヴァーリス『フィヒテ研究』における関係論的思考をめぐって
平井涼(東京大学・文学)
本発表では、九五年秋から、およそ一年間にわたって書き継がれた、ノヴァーリスによる当時未公刊の手稿群である『フィヒテ研究』に焦点を絞り、フィヒテの知識学から出発しつつも、それとは異なる独自の思考がどのような仕方で練り上げられていったか、を検討することにしたい。ここでは、ノヴァーリスに固有の関係論的な思考をとりわけ軸としながら、膨大な『フィヒテ研究』の全容に、ひとつの視角を与えてゆくことにする。
まず、「第一草稿群」の前半部において、前意識的な衝動の側から、経験的自我の自己意識が発生してゆくに至る過程が根拠づけられたあとで、そうした過程の所産として成立した経験的自我の側から理論的自我が、経験を超えた純粋自我の側から実践的自我が導き出されてゆくのであるが、これら両者は、互いが互いを媒介し合う関係としての、交互限定という連関の下に成り立っている。しかし、実際には、こうした関係そのものが理論的自我(あるいは哲学的観察者)の側から措定されたものであることが自覚されることによって、絶対的自我は純粋自我から区別され、反省によって設定された関係の外側へと追い遣られてしまうことになる。ここから、意識の最終的な根拠の把握不可能性という帰結が導き出されてゆくのである。
こうした帰結を受けて、「第二草稿群」から「第三草稿群」へと至る議論では、自己意識が成立する以前の衝動の側へと向かって遡行がおこなわれてゆくことになる。とりわけ、「第三草稿群」では、衝動の領域そのものが、相反し、拮抗する力の場として捉え直され、そこからの自己意識の発生が根拠づけられてゆく。こうした力の場は、潜在態と現実態という相反する領域のあいだの関係によって形づくられており、それらが互いに交替し合ってゆくことによって、両者のあいだの関係が積極的に展開され、そこに孕まれた内容的規定が充実されてゆくのであるが、こうした関係それ自体が哲学的観察者によって設定されたものであることが自覚されるとともに、意識の最終的な基底を形づくっている構想力の働きそのものはまたしても逸失されてしまうのである。
こうして、関係性という視点から、哲学的観察者の認識能力に対して限界設定がおこなわれるとともに、この限界内であれば、関係性そのものを積極的に展開してゆくことが可能である、という事実を確認することによって、ノヴァーリスの思考は大きく転回してゆくのである。