シュライアマハーの倫理学構想を支える言語観について
Schleiermachers Sprachverständnis als Bedingung seiner Ethik

瀧井美保子(明治大学・文学)

 シュライアマハー(1768-1834)が自らの思想を徐々に体系化していくにあたって、最も早くから精力的に取り組んだのが倫理学関連の分野であったと考えられる。
 シュライアマハーの倫理学の概略を、きわめて図式的に簡略化して述べるならば、倫理学は「自然に対する理性の行為」を扱う学問で、「理性に対する自然の行為」を扱う自然学と共に、根本哲学である弁証法のもとに二大部門を形成するとされる。
 シュライアマハーの倫理学は所与の現実から、すなわち「自然の中で、理性との一致がすでに生じている最小の部分」とされる「人間」もしくは「人格(Persönlichkeit)」から出発する。この「人格」がさまざまに行為することで、理性はさらに(いまだ理性と一つになっていない)自然に働きかけ、自然に浸透する度合いを深め、自然と一致する範囲を拡大していく。この深化・拡大の意味での「生成」の過程が「倫理的プロセス」と呼ばれ、その総体が人類の歴史ということになる。
 理性が自然に働きかける行為には「組織する(organisierend)」行為と「認識する(erkennend)」行為という二つの主機能があるとされる。一方、「人格」は「同一性(Identität)」と「独自性(Eigentümlichkeit)」の対置のうえに成り立つとされ、この二つの根本的な対置項がクロスすることで、「同一的な組織行為」、「独自の組織行為」、「同一的な認識行為」、「独自の認識行為」という四つの領域が、理性の行為の領域として形成されることになり、それぞれの領域から「完成した倫理的形態」として「国家」、「自由な社交」、「知の共同体」、「教会」が生まれるとされる。
 
 ここで「言語」との関連に目を転じれば、この四つの領域のうち、言語との関係が明示されているのは、当然のことながら、「知の共同体」へと至る「同一的な認識行為」においでである。しかし今回の発表で示したいのは、他の三領域においても、言語そのものではなくても、言語的な構造をもったメディアが決定的な役割を果たしているのではないかという点である。
 この点が特に顕著なのは、二つの「独自の」行為の領域だろう。(むろん「同一的な組織行為」も、「人格」によって担われる限り、独自性を完全には免れないため、厳密には事情は同じとなる。)「独自性」は「移換不可能性(Unübertragbarkeit)とも表現されるが、移換不可能なものがどうやって「自由な社交」や「教会」という共同体へと至るのか、さらに共同体の中でも「独自の行為」であり続けるのかという点に注目しながら、そのプロセスを分析していくと、見えてくるのは、(独自の「認識行為」においてのみならず「組織行為」においても共通して)独自性の「表出」、それを受けとめる「認識共同体」の存在、そして独自性の形成と共同性の形成の連動、という構造であるように思われる。そしてこの構造は、シュライアマハーが解釈学で展開した言語観(言語と発話者の相互作用の結実としての言語表現)の根本とも一致するように思われる。
 「知」の領域のみならず、あらゆる行為の領域で、言語的なメディアの存在を前提にしているからこそ、シュライアマハーの倫理学は、共同性と独自性の双方を活かすことにこだわり続けることができるのではないだろうか。今回の発表では、1812/13年冬学期の講義を丁寧にたどることで、この点を明らかにしたいと考えている。