画像言語としての手話言語
――直観と思考の一体性――
(Gebärdensprache als Bildsprache
Einheit der Anschauung und des Denkens)

髙山守(東京大学・哲学)

 手話言語は、音声言語とは根本的に異なる言語性格をもっている。それは、視覚言語であるということである。すなわち、言語が音声(聴覚情報)によって表現されるのではなく、視覚情報によって表現されるということである。では、この視覚情報とは何か。それは基本的に画像である。たとえば、「本」は、両手のひらを合わせ、その両手を、小指側を軸にして開くことによって表現される。これは、本が開かれる、もしくは開かれた本の画像描写である。また、「家」は、その一部、つまり、屋根が、両手で形作られること――屋根の画像描写――による。その他、画像の表現形態は多様だが、手話言語は、基本的に画像表現言語、つまり画像言語なのである。
 では、こうして手話言語が画像言語であるということは、何を意味するのだろうか。それは、要するに、ろう者(聴覚障害者)の言語であるということなのだろうか。たしかにろう者は、手を中心とした身体表現によって、言語表現を行なう。そうであれば、それが画像言語となるということは、自然なことであろう、と考えられよう。むろん、そのとおりではある。しかし、手話言語が画像言語であるということには、いっそう根本的な意味がある。それは、ろう者は、手話言語という画像言語以前に、画像そのものによって思考を遂行するということ、そして、手話言語は、そうした画像思考と一体の言語である――その意味で、画像言語である――ということである。この点については、中山慎一郎との共著論文「手話言語の画像性」(『理想』第704号、本年5月刊行予定)において立ち入って論じた。
 さて、手話言語が、このような意味で画像言語であるとするならば、それは、カント以来顕著に顕在化した直観と思考の二元論という、哲学の論議におけるもっとも根本的な認識論的構図に、端的な再考を迫るものとなりえよう。というのも、直観的もしくは感性的な受容内容の根幹部が、視覚感覚つまり画像情報であるのに対して、この言語においては、その内容の思考形態もまた、画像思考(および、それと一体である手話言語思考)という画像形態をとるからである。ここには、直観および思考という両者一体の存在論的画像世界とでも言いうる、特有の世界が成立している可能性がある。
 では、この特有の世界とは具体的にいかなるものであるのか。これについての研究は、なお緒に就いたばかりであるのだが、その一端をお話しできればと考える。