ランシエールによる『美的教育書簡』の変形と継承
鈴木 亘(東京大学・美学)

 本発表は、現代フランスの哲学者ジャック・ランシエール(1940-)の美学思想において、フリードリヒ・シラー『人間の美的教育についての書簡』(1795)のプロジェクトの変形された継承を見出すことを目的とする。
 ランシエールは、『感性的なもののパルタージュ』(2000)や『美学における居心地の悪さ』(2004)において、芸術を芸術として同定する枠組みを規定する「体制」の変遷として美学史・芸術史を記述する。18世紀後半から現在に至る「美的体制」において、芸術はアリストテレス以来のあらゆる規則から解放され、作品それ自体の自律した「特異性」のみが、芸術を芸術と同定する基準になるとする。そしてランシエールによれば、「美的体制」を特徴づけるのは、こうして自律性を獲得した芸術がまさにその自律性によって人間の生に関わり、世界変革の可能性を付与される、という逆説的な事態である。
 ランシエールがシラーに触れるのは、この「美的体制」の端緒かつ範例のひとつとしてである。『美的教育書簡』の第15書簡において記される、ルドヴィシのユーノー像の「無為」「無頓着」の有様が引き起こす「美的状態」によって真に完成した人間が育成される、という論理を、ランシエールは「美的体制」の「最初のマニフェスト」とみなすのだ。周知のように、シラーの美的教育のプロジェクト—個人の内に調和をもたらすこうした美によって人々を統合し、自由が実現した「美的国家」を樹立すること—はしばしばそのユートピア性、非現実性を批判されてきたし、ランシエールもこのプロジェクトの帰結について直接的に評価を下しているわけではない。しかし、2011年の著作『アイステーシス』のスタンダール『赤と黒』論において、シラーの美的教育思想のランシエールによるひとつの継承を見出すことができる。
 『赤と黒』の結末近く、主人公ジュリアンが独房で見出す「天国」のような幸福は、ランシエールにおいて、立身出世の計算や謀略、ひいては因果性や時間性もが「中断」し、自らの「実存の感覚」のみが純粋に享受される「暇 otium」の経験であるとされる。この経験それ自体が、感性的経験の享受において平民と貴族とが平等であることを宣告する「平等革命」なのである。以上のシラー論とスタンダール論とをつなぐ結び目として、シラーにおける「美的状態」の「調和」が「中断」と読み替えられ、美による分裂の「統合」よりもむしろ、ルソー的な「孤独」が強調されていることに着目する。