マルガレーテ・ズースマンの「抒情詩の〈私〉(das lyrische Ich)」概念とヘーゲルならびにディルタイの文学理論との比較考察
Vergleichende Betrachtung von Margarete Susmans Konzept „das lyrische Ich“ mit Hegels und Diltheys literarischen Theorien
小野寺賢一(大東文化大学 文学)

 「抒情詩の〈私〉(das lyrische Ich)」とは物語理論における「語り手(Ich-Erzähler)」に相当する概念であり、従来おもに、抒情詩の語り手としての「私」を経験的・伝記的存在としての作者から区別するために用いられてきた。ただし、その有効性には繰り返し疑義がさしはさまれてもきており、とくに1990年代中頃以降はこれに代わるより有効な概念が模索されるようになった。その結果として現在「抒情詩の〈私〉」は、批判的なテクスト理論の分析ツールとしては、その活躍の場を次第に失いつつある。しかし、この概念がどのような歴史的文脈において成立し、また流布するようになったのかについては、これから探求されるべき事柄として残されている。本発表ではこの探究に寄与すべく、「抒情詩の〈私〉」をはじめて詳細に規定したことで知られるマルガレーテ・ズースマンの理論を、その先行者とみなされているディルタイならびにヘーゲルの文学理論と比較する。
 ズースマンは『近代ドイツ抒情詩の本質』(1910)において、従来の「美学」が長きにわたり「抒情詩を一つの人格的な、それどころか主観的な形成物であると考え、抒情詩において語る〈私〉を詩人の人格的な自我であるとみな」してきたと指摘した。そして両審級の区別を強調したのである。これに対して、マルティン・マルティネス(2002)は同様の区別はヘーゲルならびにディルタイの理論にもみられること、したがってズースマンの美学批判は必ずしも的を射ていないと論じたのであった。
 しかし、マルティネスのズースマン批判もつきつめれば的を外しているといわざるをえない。最大の問題は、彼が個人的体験の端的な一般化ないしは普遍化こそがズースマンの抒情詩理論の核心であると考えた点にある。実際には、ズースマンは、けっして一般化ないしは普遍化しえない「通約不可能なもの」が詩作の核を構成するのであって、詩人の体験とその一般化とのあいだには弁証法的な緊張関係があると考えたのであった。こうした発想は、個人的な体験の円滑な客体化ないしは普遍化を偉大な詩人の業とみなす、ヘーゲルならびにディルタイにはほとんどみられないものである。
 三者の理論はいずれも、18世紀後半に表面化した、抒情詩における模倣美学と表現美学の対立をそれぞれのしかたで調停するものであったといえる。そのなかでもズースマンの理論は、19世紀後半より広くみられるようになった秘教的な詩の意義を、主観性や普遍性とは異なる尺度で説明するために構想されたものであった。今後彼女の理論は、やはり神的体験とその一般化との間に横たわる緊張関係を問題にしたヘルダーリンの詩学とも比較されるべきであろう。それは抒情詩の言説史の一側面を明らかにする試みとなるはずである。