フンボルトの陶冶・教養プロジェクトの諸相
伊藤敦広(作新学院大学女子短期大学部)

 「最初の近代大学」としてのベルリン大学、そしてこの大学を主導したとされる理念は今日にいたっても大学をめぐる言説でしばしば取り上げられる。そしてこのベルリン大学の創設者であるフンボルト(Wilhelm von Humboldt, 1767-1835)の名は近代大学の諸原則(「研究と教授の一致」、「孤独と自由」など)と結びつけられて、象徴的に(しばしば歴史の実態から遊離したかたちで)多様な言説を生み出している。たしかにフンボルトがベルリン大学創設の責任者であったことは事実であり、「フンボルト理念」が持つ神話性が声高に主張されてもその歴史的意義を否定することはできない。
 しかしそこにはやはり問題がある。近代大学の理念としてのいわゆる「フンボルト理念」
と、フンボルト自身が生涯をかけて探求した「陶冶論(Bildungslehre)」は――その内実に即して考察すれば――けっして同一のものであるとは言えない。よく知られているように、フンボルトがプロイセン宗務公教育局長として教育制度改革に携わったのは1809年から1810年の1年ほどでしかなく、その間に成立する「高等学問施設」についての断章は「フンボルト理念」の典拠とされてはいるものの、それまでのフンボルトの思想の内在的発展から生み出されたものというよりむしろ当時の様々な大学論を統合したような内容のものであった。このテクストは他の思想と対話しながら自らの思想を作りあげていくというフンボルト流の「弁証法」の成果だとは言えるが、それのみからフンボルトの「陶冶・教養(Bildung)」概念、そしてその実践について十分な理解を得ることは不可能である。プロイセン教育改革期のテクストの背景には、いわゆるフンボルト理念には回収されえない啓蒙主義者フンボルトの陶冶・教養プロジェクトが存在するのである。
 本発表ではフンボルトの陶冶・教養に対する関心がプロイセン教育改革期までどのように発展していったのかを概観し、その陶冶論の基本的特徴を示したうえで、プロイセン教育改革期のテクストをフンボルトの生涯にわたる陶冶・教養プロジェクトの一面として意味づけなおすことを試みる。これにより、今日の高等教育(ないしは社会教育)のあり方を考えるための一助としたい。