神の名と音楽の神話的性質—ムーサとディオニュソスの弁証法
Göttername und der mythische Charakter der Musik—Dialektik von Muse und Dionysos
東口 豊(九州大学・美学)

 音楽(Musik)は、様々な芸術のジャンルの中でもある意味特別な存在だということが出来
る。と言うのも、音楽だけがその名称に神の名(Μοῦσα)を含んでいるからである。更に、音楽の根本的要素の一つでもある調和がハルモニアー(Ἁρμονία)の女神の名を戴き、ピュタゴラスを始祖とする数比理論が宇宙の原理と協和音程の照応関係を指摘したことによって、ゼウスと記憶の女神ムネーモシュネ―の娘たちのわざ=ムーシケー由来の名称を名乗り続ける音楽が、世界の見えざる根源を認識する学芸であり、音楽に現実と形而上の紐帯という役割を与えてきたのである。
 このようなギリシア神話の女神の名に仮託された音楽それ自体がもつ形而上的な性格は、一時期修辞学を基盤とする言語的音楽観の立場から批判されることがあったにせよ、長きに亘って西洋音楽思想の底流に存在し続けていた。ヨハン・ヨーゼフ・フックス(1660-1741)の対位法の教科書がムーサを想起させるGradus ad Parnassum(1725)と題され、ムツィオ・クレメンティ(1752-1832)やクロード・ドビュッシー(1862-1918)がそれに影響されて楽曲のタイトルを付けるなどの事例は、そのことを裏付けるものと言えるだろう。
 しかし19世紀後半に、音楽の神話的性格に関する言説において大きな転換が訪れる。F.W.ニーチェが1872年に出版した『悲劇の誕生』がそれである。そこで提示される藝術の類型論は、シラーの「素朴的」「情感的」などによって類似したものが提出されていたが、ここで重要なのはアポロンを主宰とするムーサの女神たちの末裔に、それとは対照的な性質を担わされたディオニュソスを投影することで、音楽思想を調和と破壊、合理性と非合理性の相克のうちに投げ入れたことである。これと同様の指摘は、マックス・ヴェーバー(1864-1920)の遺稿『音楽社会学』における旋法の歴史の解釈に読み取ることが出来るだろう。技術の発達や表現手段の多様化に伴って、音楽が「脱魔術化」し、一義的にムーサ的性格を担わなくなるという議論は、音楽という名称を敢えて使わずサウンドや音響文化という言葉を使うことで形而上学的議論を避け、日常の地平への志向を強めるように思われる昨今の音楽観を暗示しているのではないだろうか。