Ⅲ マルクス・ガブリエルと西谷啓治 Markus Gabriel und Keiji Nishitani
橋本 崇(東海大学・哲学)

 マルクス・ガブリエルは、「我々は外から世界を見ることは出来ないのであるから、世界の像を造ることは出来ない。」として、「感覚領域(Sinnfeld, field of sense)の存在論」である新実在論を展開している。ガブリエルによれば、「対象と関係を持ち、何かしらでも言及するためには、我々は対象を感覚領域に位置づけねばならず、何かとして定義しなければならない。」 のであるから、「世界はあらゆる感覚領域の感覚領域であり、その中にあらゆる他の感覚領域が現れる感覚領域である。」ということになる。ところが、あらゆるものが現れる世界という感覚領域を捉えたと思った瞬間、その世界そのものが新たな感覚領域として現れてくるような、より大きな感覚領域が開かれてしまうので、「他の感覚領域がそばに現れる一つの感覚領域の中に世界が現れるのは不可能」であり、全体としての世界を捉えようという試みは、より広い感覚領域を無限に生み出すというイタチごっこを繰り返すのみで、必ず挫折する。従って、「世界は世界の中に現れない」のであり、「我々は世界そのものを把握することは出来ない。なぜなら世界が属する感覚領域は存在しないからである。」とガブリエルは主張する。
 「感覚領域の存在論から、我々の脳裏に常にゆがめられてのみ記述されるような現実性の根底的なレベル-世界それ自体-は、存在しないということが帰結する。自然科学は、世界それ自体のような現実性の根本的なレベルを認識することが出来、他のあらゆる認識要求は自然科学の認識に常に還元可能であるとか、自然科学の認識によって測られるべきだというテーゼ、すなわち科学主義は端的に誤りである。」と強く主張されているように、この「世界は存在しない」というガブリエルのテーゼは、自然科学のみが世界を客観的に把握するという世界像への批判となっている。従って、我々が日常素朴に存在すると信じ込んでいる世界が、決して実在しないと強く主張しているというよりも、むしろそのような世界が、ともすると、自然科学の解明する客観的世界より、現実性のレベルの低いものとみなすような科学主義に対する警告として、発せられていると考えられる。
 このテーゼは次のような大きな問いを投げかけてくる。すなわち、世界そのもののような、現実の根底をなす究極レベルの世界が存在しないならば、
1)我々が素朴に実在すると信じている世界を、どのような世界として捉えればよいのか。
2)世界そのものが存在しないという事実を、どのようにとらえればよいのか。
という二つの問いである。実は、日本を含めた東洋の中で育まれてきた仏教には、この二つの問いに答える手掛かりが秘められているのではないか。このような観点から、今回は西谷啓治の「情意の世界における空」を手掛かりに、新実在論と仏教哲学の接点を探究する。